【雑記ブログ】

日々学んだことを書き記しています。

”They worshipped strength…” ④

そしていよいよ出てきました、この言葉です。

 

They worshipped strength,

人々が崇拝したのは真の強さだ

 

worship には、崇拝、参拝、礼拝、尊敬、敬愛、熱愛など、いくつかの訳があり、似たような言葉でもちょっとずつ違ったニュアンスを持っています。ここはやはり、字幕通り「崇拝」がぴったりときます。

 

お婆ちゃんが神社で手を擦り合わせて「ありがたや、ありがたや~」と言っている姿、

または、敬虔なイスラム教徒の礼拝の姿、跪(ひざまず)いて床に額を擦(こす)り付けるくらいのお辞儀を何度も何度も繰り返すあの姿、、

 

そのような崇高な気持ちで、彼らは「strength」を妄信的に追い求めた。。

 

武人が戦争に行く前、死を覚悟し神に祈りを捧げる光景は映画や大河ドラマなどでもよく見たことがあるでしょう。それは日本の武士でも西洋の騎士でも世界各国みんな同じく。多くの神がいる日本では、戦いの神など強さを象徴する神が武士たちには好まれてきました。

 

ここでいう「strength」は、もっと物理的な「力」を意味するはずです。「真の強さ」というと精神的な強さや寛容的な強さなど総合的な強さを含み、意味がぼかされてしまう気がするのです。

 

もっと直接的、物理的で暴力的な強さ。殺しに来た相手を殺し返す戦闘力だとか、

自分に反対する者を容赦なく弾圧する権力だとか、

人々が「いやそのやり方はどうかと思う」と眉をひそめる残虐なことも平気でやる行動力だとか、

つまりは目的を達成するためには手段を択(えら)ばない「力」です。

 

だから、必ずしも世間的に評価される美しい「力」だけでなく、残虐で暴力的な「力」をも含んでいます。そこで、ハンが博物館でローパーに見せてきた数々の拷問道具と辻褄(つじつま)が合うんです。「きれいごとだけじゃ国は治められないんだよ」という為政者の声を代弁しているように。

 

 

They worshipped strength,

彼ら(武人、為政者など日々戦いの中にいる人々)は、強い「力」を崇拝した。

 

「どうか私に力をお与え下さい」「自分にも人にも負けない力を」と、神に懇願しているような。

 

 

2021年10月15日金曜 午前6時半